⬛︎豊島区の東京手描友禅工芸士
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東京手描友禅とは
東京手描き友禅の制作工程は大きく分けて、糸目友禅・蝋纈(ろうけつ)染・無線描の三通りの技法があり、構図、つまり着物のデザインから染めの工程の仕上げまでを一人の職人の手によって制作します。ですから一反の着物ができるまでには、3か月から半年、図柄によってはさらに時間を要するといいます。
一人の職人によって制作される東京手描友禅は、他にはない、世界にただ一つの反物となって、やがて着物として仕立てられるのです。
⬛︎糸目友禅
「糸目糊置」という工程で、「真糊(まのり)」という糊を構図の輪郭線を伏せて防染し、隣り合わせた色が混ざらないように染色するための役割を果たします。
**真糊はもち粉を主体として、糠などを調合し、練り、蒸し、搗く(つく)工程を経て作られます。この真糊の調合は、各職人によって秘伝があり、蘇芳(すおう)や石灰、亜鉛松などが混ぜられ、その質によって友禅の仕上がりを左右します。しかし、真糊は、天然素材で出来ている為、練り具合や毎日の温度変化に左右されることや、腐敗してしまうなど、その扱い事態に熟練の技を必要とします。真糊は扱いが難しいものの、絵筆で描かれたような柔らかい線の表現ができること、また水溶性でありながら防染の効果が高く、自然乾燥で糊が定着することから、水洗いの工程を経ても友禅を挿した時の色に限りなく近く表現され、変色がないことから、現代においても東京手描友禅の主体となる重要な要素です。
近代では扱いが簡単な化学糊であるゴム糊も使用されています。ゴム糊は扱いやすいだけでなく、輪郭がはっきりと表現され、すっきりとした仕上がりになるという、真糊にはない表現が可能です。ゴム糊は溶剤を混ぜ、熱を加えながら染色していきます。
⬛︎蝋纈染
真糊の代わりに蜜蝋を防線に使用します。蝋纈染自体は大変古い染色法で、紀元2、3世紀頃にはあったといわれ、日本においても正倉院宝物の中に見ることができます。乾燥が早い蜜蝋の扱いも、真糊とは違った難しさがありますが、むしろ乾燥によって生じるヒビ割れを利用した独特の「き裂」文様が特色です。
⬛︎無線描
糸目糊を用いず、布地に絵画を描くようにそのまま染色を施します。糸目の線が無いから無線描きと称されます。
◎友禅作業工程
友禅を施した着物が完成するまでに23もの工程を経て友禅を施した着物が完成ます。
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⬛︎三大友禅の中の東京手描友禅
「友禅」は、江戸時代の中期である元禄時代に扇面絵師であった宮崎友禅斎によって創始されたと言われます。その技は、京友禅·加賀友禅·東京手描友禅の三大友禅として、今日に受け継がれています。友禅の技法は大きく分けて、本友禅とも呼ばれる手描き友禅と型友禅の2つがあります。
手描き友禅:白生地に図案を手描きで染めていく方法で、下絵を施した生地に「糸目糊」と呼ばれるもち米を原料にした糊を小さな円錐形の筒に入れ、輪郭や線に沿って糊を置いていきます。その線は図案によっては絵柄の表現として絶妙に変化を与え表現されることもありますが、一人前の職人には、極細く均一な線を自在に描く技術力が求められます。この糸目糊が防染の役目を果たすことで、この後に続く「友禅挿し」とよばれる彩色を施す際に、隣り合わせた色が混ざることなく、まるで絵画のように鮮やかに多彩な色で染めることができるのです。
型友禅:防水性の強い柿渋紙で作った型紙を利用し染める技法です。型紙を繰り返し使用する事が出来るため、大量生産が可能ですが、一色に一枚の型紙で染める工程を何度も繰り返すため、その工程には熟練した技が求められます。
三大友禅はそれぞれ発展してきた時代背景や土地柄によって、図案や色合いだけでなく、制作工程も独特の特徴を持ち合わせて発展してきました。
◎「京友禅」
その色調は柔らかで、配色に気を配られているため色に富んでいながらも女性的で上品な印象を与えます。文様は、友禅以前からある古典的な文様や図案化されたものが多く、御所車など、公家や宮中で好まれる文様が特色です。その他、染めの手法として「染め疋田」や「ぼかし」といった独特な手法を用い、仕上げに金箔や刺しゅうを施すなど、大ぶりな構図と華やかさが特徴です。また制作過程において、構図から始まる全工程、およそ20種の工程を各専門の職人によって行われる分業制によって制作されることは、加賀、東京との大きな違いといえます。
◎「加賀友禅」
京で友禅が流行して後、友禅斎が能登に渡り広めたともいわれていますが、元々、加賀の国には室町時代より続く「梅染」という梅の皮や渋で布地を染める無地染やこの他にも模様染の高度な染色技法があり、染色についてはすでに先進的な技法を有する土地柄がある中で、友禅斎によって斬新で大胆なデザインが取り入れられ発展したと考えられています。京友禅に比べ、「虫食い葉」と呼ばれる独特の模様に代表されるように、葉の虫食いさえも表現する自然を題材とするなど、構図に絵画的な要素が色濃く表れています。色彩も「加賀友禅五彩」と呼ばれる蘇芳(すおう)·黄土(おうど)·藍(あい)·草·古代紫を巧みに合わせ、落ち着きと品格を称えた色調が特徴で、描法においても、京友禅では花びらの内側を濃く外に向かって淡くぼかす描法に対し、加賀では外を濃く、内、つまり花芯に向かって淡くぼかす「外ぼかし」といわれる表現方法も特徴の一つです。また加賀友禅では「染」に重点を置き、箔や刺しゅうを極力使用しないという点でも、独特の美観を持っています。制作にあたっては、その物によって分業、あるいは一人の作家がほとんどの工程を制作する場合と様々です。加賀友禅は、古来より続く高度な技と新しい友禅の技を融合しながら、城下町として武家好みの落ち着いた模様や図案が当時の人々に求められたという時代背景が、今に続く加賀友禅の特徴に表れているといえるでしょう。
◎「東京手描友禅」
歴史的には、江戸幕府が成立し、参勤交代で江戸へ移動する大名に続いて、京友禅の職人が江戸に移動し発展させた背景がありますので、三大友禅の中では一番若く発展してきた友禅といえます。「手描」の名の通り、全て手描き、型は使わず、構図から下絵、箔などの仕上げに至るまで、一人の友禅作家によって仕上げられることが最大の特徴です。
友禅はその工程の中で水に漬けて、下絵染料の青花液や糊等を落とす工程があります。きれいな水を大量に必要とするこの工程は、以前は川で行われていました。「友禅流し」と呼ばれるこの工程のために、東京の友禅職人たちは、隅田川や神田川の河川流域に移住するようになり、大正時代に入り、よりきれいな水が流れる神田川上流域である落合村(現在の高田馬場)に 三越が直営の染色工場を設置したことから、高田馬場を中心として、現在の新宿区はもとより、豊島区·中野区·練馬区にも多くの友禅作家や染色職人が移住するようになりました。
東京手描友禅は、色柄ともあっさりとした特徴があり、江戸時代に何度か発令された「奢侈(しゃし)禁止令(贅沢や華美なことを禁ずる御触れ)」が出たという時代背景もあり、初期には「藍·白·茶」といった色遣いが好まれましたが、その模様は華美にならないように細やかで小さ目ながら、技法を凝らした江戸っ子の粋とモダンさを兼ね備えたデザインが出現しました。まさに「粋」という江戸らしい美意識の誕生です。「糊の白上がり」と呼ばれる防染糊で伏せた白い部分をそのまま模様の一部に活かす技法にも、不要な彩色を極力排し、華美になり過ぎずに、その渋さの中に艶っぽさや洒落っ気、明るさを兼ね備えた、これまでにない斬新なアイデアが光る東京手描友禅らしい特徴が表れています。
京では公家の、加賀では武士の好みが反映されてきた友禅ですが、東京手描友禅は、天下統一のための乱世が落ち着き、平和な生活によって心のゆとりを持った町人たちの文化が色濃く 反映された友禅といえるでしょう。
⬛︎日本の衣服の変遷~友禅染めが現れるまで
原始から縄文時代の人々が身に着けていたものは、木や草の繊維を生地のような形にして 着ていたと考えられています。弥生時代にはすでに大陸から養蚕技術がもたらされ、卑弥呼は漢に絹を献上したと『魏志倭人伝』には記されています。その後、渡来人により、当時の高い技術がもたらされ、徐々に織りや染めの技術は進んでいきます。
古墳時代には、染めの技術においても藍の原料である蓼藍(たであい)や赤色の原料となる紅花も渡り、染色法もかなり高度な技法が完成したと考えられています。平安時代には十二単(じゅうにひとえ)に見られるように、美しく染められた着物の色合わせを楽しむ「襲(かさね)の色目」という日本独自の文化が現れます。しかしながら、これらは宮廷貴族たちが身に着けるものであって、庶民は、あいかわらず植物の繊維で作られた極薄い布を身に着けていました。
やがて武士が台頭する時代になると人々の生活の変化と共に、染織技術にも大きな変化が 現れてきます。宮廷であまり動くことのない貴族の時代から武士の時代になると、外で働く 労働者たちが主体の世の中となり、十二単のような重ね着の文化ではなく、活動的な衣服が 必要とされ、体にフィットするデザインへと変化していきます。それと同時に平安の末期に 流行した「風流(ふりゅう)」の文化が引き継がれます。中世に発生した「風流」とは、華美な装束で着飾り、踊りや山車などを引いて人々が行進することです。観る人を驚かせようと 装束に趣向を凝らすことから、染織の技術も、鎌倉から室町時代へと進化していきます。さらに戦国時代には、富を持つ武将によって豪華絢爛たる文化が花開き、南蛮渡来の文化も入ってくるようになります。戦国時代でありながら、武将たちはそれぞれの個性を発揮する装束を身に纏い、戦場へと出掛けて行ったのです。安土·桃山時代には、信長や秀吉といった将軍だけでなく、その周りにいた武将、また町人の中にも裕福な者が現れ、渡来する南蛮文化と黄金採掘の影響を受けた豪華絢爛な桃山文化のもと、誰もが競って着飾る時代でありました。今も私たちは当時の装束を見ることが出来ます。現代に受け継がれた「能装束」です。この頃には、衣装を制作する小袖屋や呉服屋が出現し、こうした武将たちの注文受け、彼らが贔屓にする 役者に、当時の職人の技術を結集した装束が与えられました。
徳川幕府が成立し、江戸という平和な時代に入ると庶民の暮らしも落ち着き、町人の中には裕福な者が出てきます。江戸時代はまさに町人文化の時代です。
幕藩体制が確立される頃には、金銀採掘の減少と共に、桃山文化から続く絢爛な流行が収まりを見せる中、各藩は特産品を生産することを奨励し、全国各地へと流通させることを始めます。その中には当然、染織物も含まれ、需要の高まりと共に、各染織技術もさらに向上していきます。やがて全国を渡る商人が現れ、問屋や権力に寄らない商家が誕生したことにより、これまで以上に町民たちが富を持つようになります。すると彼らは、自分たちの身なりにも財を掛け始めます。民衆が力を持ち始めることを危惧する幕府は、華美な衣服を禁ずるお触れを出します。しかしながら戦いの無い平和な時代は、町人の暮らしを安定させ、豊かさを手にした彼らは、これまで特権階級だけが享受していた余裕ある贅沢な生活への渇望が募り、禁令に触れない範囲で新しく美しいものを人々は望むようになるのです。そのような時代背景の下、いよいよ「友禅」技法が出現します。
「友禅染」は、京都の扇絵師 宮崎友禅斎が、小袖の意匠を描いたことが始まりといわれています。この時代、幕府や朝廷のお抱え絵師である高級絵師とは別に、京都では絵屋(えや)という、扇子に絵を描いて町人に売る職業がありました。彼らは後に様々なものに図案を描くようになりますから、扇絵師である友禅が小袖のデザインを描くのも不思議なことではありません。今でいえば意匠デザイナーの走りとも呼べるかもしれません。多色で描かれる友禅染の文様は、インドから大陸を経て渡来した多色染めの文様を持つ更紗(さらさ)に魅せられていた当時の人々の間で、瞬く間に広まり、京都で興った「友禅染」の技法は、幕府を抱える江戸でも流行し、次々と職人が江戸へと移住してきました。
友禅の染色技法は、それまでの様々な染色技術を取り入れ改良し、さらに新しい技術を加え、これまでになく自由に描いた絵画のように文様を施すことを可能とする新しい手法でした。 友禅斎という人は、様々な文献にその名が残ることから、その存在は確かなようですが、実際のところ分からない部分の多い人物で、彼が小袖の下絵を描いたことは明らかではあるものの、染色技法を考案したということが記されている文献は今のところ見つかっていないようです。絵屋という職業柄、知り合いの染色師がいたことは推測されますから、恐らく染色師と共に編み出した技ではないかと伝えている研究者もいます。
どちらにしろ、当時の日本人にとって「友禅染」は、渡来する外国の生地にも劣らぬ斬新さと美しさとで熱狂的に受け入れられたことは確かでしょう。そして、その技は何代にも渡って、現代にも受け継がれているのです。
〜庁舎まるごとミュージアム第八期解説参照・抜粋〜
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