■豊島区の東京籐工芸工芸士

※写真クリックで詳細へ

 

 

Hideyuki Ozaki

尾崎 英幸

 

 

トウ(籐):広義にはヤシ科トウ亜科の植物のうち、つる性の茎を伸ばす植物の総称(13属約600種)で、ロタンやラタンともいわれています。。英名のラタンはマレー語に由来し、そのうち特に代表的なヤシ科トウ属の蔓性木本(300種から400種)をいうこともあります。トウの繊維は植物中で最長かつ最強ともいわれています。

籐は通常の木材よりも丈夫な素材で、曲げにも強いため、細く割いて籠を編んだり、太いものは杖や家具のフレームに利用されています。樽板や輻、ステッキ、鞭などにも使用されます。熱気球のゴンドラ(バスケット)は現在においても籐をベースとしたものが主流です。
通常は丸籐と割籐とにわけられ、丸籐は太民(たいみん)、双棟(そうかん)、三棟(さんかん)、四棟(よつかん)の4種があります。椅子やテーブルの脚、腕木、持送りに用いられ、割籐は丸芯籐(縦編、横編、小物用)、半芯籐(柱巻、縁巻用)、皮籐(椅子やテーブルなどの小物用)の3種。ふつうの籐張りには、皮籐が用いられ、編んで座、背、肘などを張ります。座張りは、座枠上端内側を籐の厚み分だけ欠き取り、これに適宜間隔を置いて穴を開け、これに籐を通し、ふつう2筋縦横筋違いにかごめに組んで編んで、縁部へも取り回して編み上げます。

 

東京籐工芸とは ~Tokyo Rattan Craft~

籐工芸、近年までは、どの家にも何かしら一つくらいはあったのではないでしょうか?
果物かご、お買い物の手提げ、椅子やタンス、衝立て、弓道を嗜まれる方には、「重籐の弓」としてなじみ深い素材である籐は、思いの外、私たちの暮らしの中に馴染む工芸として使われてきました。古くから日本人の生活に身近な存在である籐ですが、実はこの素材、 日本には自生していないのです。

籐(ラタン)は、東南アジアを中心とした熱帯雨林・亜熱帯・熱帯地域に自生するヤシ科の植物で、200種類以上あるといわれています。早い年月で成長し、植物の中では最長といわれる長さを持ち、中には200メートル以上になるものもあります。同じ組み細工に使用される竹に比べ、軽くてしなやか、強さも兼ね備えた素材として、古くから人々の暮らしに用いられてきました。特に強さについては、完成された籐工芸の持つ、柔らかで繊細なフォルムからは想像できない程の堅牢性を保持しています。引く力に対する強度が極めて高いため、「編む」「組む」だけでなく、竹が苦手な「結ぶ」「巻く」という工程にも耐えることが できます。その性質は、竹工芸の補強材として使われているほどです。

しかしながらこの籐という素材は、その採取方法から、組むことのできる材料となるまでに、決して楽ではない多くの加工が施されます。

籐は、東南アジアのジャングルに自生するものが伐採され、採取されます。そのツルは、棘のある表皮で覆われています。採取するだけでも大変な労力を伴うため、原産国においても人手不足で、採取すること自体が難しくなっています。
採取された原木は、葉や棘を取り除き、5~6mくらいに長さを揃えたものを何度も池の水にさらし、アク洗いをしたものを、鉄製の櫛状になった道具で籐を引き、外皮を取り除きます。この外皮は、ホーロー様の光沢を持ち、ガラスよりも強度があるとも言われる籐独特の性質でもあり、そのままに残して製品化されるものもあります。

原産国で、伐採から寸法揃え、適当な太さに加工された籐材料の一部は、香港などに送られ、さらなる工程に入ります。籐は皮をそのままに使うものから、皮を引き、籐の芯部分を所定の太さに引いて使用するもの、引いたものをさらに過酸化水素水により漂白する工程「晒し」が施されたものまで、様々な加工を施します。そして、漸く日本へと輸入されるのです。

下加工を施された籐材は、さらに日本の職人の手によって、工芸品へと完成されます。籐工芸が出来上がるまでには、工芸品の種類によって違いはあるものの、主に次頁の工程で進められます。完成品の精度は、材料の良し悪しを見抜く職人の目と手の間隔、組みの技術、手間暇惜しまぬ丁寧な仕事が全工程が関わってきます。

■籐製品ができるまで(例:椅子)    製品によって手順は変わります

材料の選別 ・・・用途に合わせて太さ、堅さ、色などを選ぶ
寸法切り ・・・用途に合わせて切る
ため直し ・・・ひずみやねじれをため棒で直す
曲げ ・・・熱や蒸気を当てて、柔らかくしたものを足や曲げ台などの型を使用して曲げて固定する。
組み ・・・パーツごとに仕上げた物をキリやクギを使用し、接合させて組み立てる
水漬け ・・・水に漬けて柔らかくする
縁巻き ・・・結合部分や籠の縁などに弱い部分に皮籐を巻いて補強する
仕上げ ・・・不要部分を取り、毛羽焼きをして骨組みを磨き、ニスを塗装する。

⬛︎藤工芸の歴史

籐は日本でも古くから使用されてきましたが、日本には自生しておらず、いつの時代も 全て輸入材料によって作られてきました。一体、日本ではいつ頃から使われていたのでしょうか?

日本へは、遣唐使によってもたらされたといわれています。正倉院宝物の中に、籐を用いた籠や胡禄(ころく…箭やがらを入れる武具)、椅子などが収蔵されていることからも、8世紀には、籐という素材が日本に入ってきたと考えられます。その後、戦国時代には、武具として広く普及します。弓の補強として籐で巻いた「重籐の弓」は、今も上級者の弓として有名です。また建築においても、仏閣の梁を補強する素材として遺っています。江戸時代には、籠など身近な日用品としての制作が盛んになり、幕末になって他国との交流が増え始めた頃には、家具としての制作が盛んになります。当時の資料である長崎出島のオランダ商館長の記録を邦訳した『出島蘭館日誌』には、バタニ(現在のマレーシア)から1,000束の籐が入ってきた記録が残っています。明治以降、その需要は増大し、加工にはきれいな水が必要であるとのことから、滋賀、富山、千葉、そして東京に多くの職人が住むようになりました。熱帯雨林・亜熱帯・熱帯地域の植物であることからも、高温多湿の風土には最適な素材であり、四季のある日本の風土では、多湿な季節には水分を吸収し、乾燥した季節には蓄えた水分を放出するという季節を問わない快適な工芸品として、私たちの暮らしを支えてきました。

遠い海を渡ってやって来る貴重な材料である籐を日本の職人たちは、元々あった素材を 編む工芸技術を活かし、原産国よりも高度な技によって、実用性のみならず繊細な芸術へと昇華させ、現在もその技は受け継がれています。日本製に比べ、海外から輸入される製品は安価で手に入ることもありますが、その違いは、使う人に細やかな配慮がされているという点で、日本製はその点で卓越しています。適した最良の材料を見極めることから始まり、パーツを組み合わせる釘がみえないように配慮が為され、部位によって編み方を変えて、張りや硬さを調整し、使う人の使い心地にまでこだわってつくられます。
その技術力の高さは、原産国であるインドネシアなど海外から、日本の職人の元へ修行に来ることからもわかります。

世界でただ一つ、豊島区伝統工芸士の尾崎さんだけが制作を続けている丸い脱衣籠

豊島区伝統工芸士 尾﨑さんだけが制作されているといわれる風呂かご。あの丸みを出すにも技があるのです。

「風呂かごは、丸く編むのが難しい。底から丸みを保ちながら立ち 上げていくところに技がある。インドネシアでは底からの立ち上げ部分をペンチで折ってしまう。その方が弾力のある籐を押さえて 編む労力がいらないからね。立ち上げを折っちゃうから丸いかごにはならないで寸胴な形になるんですよ。丸みを保ちながら編むには、足で押さえながら一気に編んでいかねばならない。大きなかごになればなるほど、力も技も必要になる。大きなかごを編むには 2メートル22センチの籐が20本必要なんだけど、編みやすくするために水を含ませたその長い籐をぶん回しながら編んでいくんです。編んでいる途中で何かで中断しなければならなくなると、夏場でも冬でも籐が乾いてしまうから、霧吹きで濡らしながらの作業になる。場所も取るし体力も使うから、籐を編むのは簡単じゃない。需要が減れば、それだけの労力を掛けて編む職人もいなくなってしまうんですよね。」

問屋で材質が安定した籐を選別して、工房まで運ぶので半日。制作するものによっては、籐を割なたで割かなければならない。やっと素材が整ったら、夏は1日、冬は2日くらい水につけて、柔らかくなったものをやっと編むことができる。編む工程でも全身を使って、かごを回しながら、編み上げていく。強さが利点の籐ですが、椅子やテーブルなどの枠となる太い籐を曲げるには、相当な力も必要です。

古い時代から、日本国内では極身近な存在であった籐工芸ですが、1988年インドネシア政府が材料輸出規制に伴い、籐自体の価格が高騰。今では日本への輸入が難しく、国内では制作することが困難な状況に陥っています。インドネシアでは輸出を規制することにより、籐工芸を国の資源として、一時期、大量に生産して完成された製品を輸出してきました。日本でも、インドネシアや台湾製の籐家具が安価に販売されてきました。しかしながら近年は、籐を採取し、加工する作業が過酷なことから、若い世代の引継ぎ手が減少。それに伴い、材料の原産国においても、製品生産が減少してしまいました。そうした背景の中、日本人にとって、手軽な日用品として使用してきた籐工芸は、高価で珍しく貴重なものへと変わってきてしまったのです。

⬛︎現代における籐工芸の危機的状況

東京籐工芸の組合では、近年、先代からの後継ぎでなく、新規に開業した人はいないのが現状です。かつては70件ほど在籍されていましたが、いまでは10件です。原産国でも材料の確保に苦労する状況では、輸入もままならず、日本の籐工芸の存続は、簡単に望める状況ではありません。渡邉さんは仰います。

「職人はどんな分野でも、プロになろうというのは簡単じゃない。
どんな注文にも応えられるのが職人の技。そうした技術をしっかり身に着けた人でないとものづくりは難しい。
若い時は何でもやってやろうと努力することが大事。自分がダメとなったら何もできない。現代人にはこの努力ということが難しい。できないだろう。たとえ努力ができる人だって、職人としてやっていくには、今や生活環境が変わってしまっているから難しい。
昔は隣近所への思いやりやお互い様として人間関係もうまくやってきたけど、今じゃ、職人の工房から出る騒音さえも問題とされる  時代。若い世代に繋ぎたくたって、職人だけじゃどうにも後進を  育てられない時代になってしまった。伝統工芸の保存を考える  なら、相互理解というものがとても重要。」

渡邉さんも、尾﨑さんも、長い年月をかけて技を磨き、年齢と共に体力の限界を感じられながらも、今の時代に合う新しいものをつくろうと制作を続けておられます。

籐工芸は長い年月を超えて、人々に使われることによって、さび色とも表現される籐工芸 独特の深みある褐色に染まります。丁寧に使えば、何百年も使い続けることのできる日本の工芸品。その工芸を制作する職人の生きざまこそ、現代人の我々に足りない、人間の営みに必要な大切なものを気づかせてくれます。

~庁舎丸ごとミュージアム第一二期解説より抜粋~
**複写禁止**