■豊島区の貴金属装身具技術者

Isao Shima

島 功

 

Masahiro Matsumoto

松本 正博

 

装身具の世界と日本の伝統技術

装身具は、人間の歴史の中では身近なものであり、また動物と人との違いを表す重要なアイテムでもあります。我が身を別のものを用いて「飾る」という行為は、世界の人々に共通してみられる営みであり、いまだ他の動物では確認されていません。その歴史は古く、旧石器時代の遺跡からも装身具とされるものが発見されています。

日本においては、約17,000年前の遺跡から、頭部飾りとみられるものが出土しており、その後、縄文時代、弥生時代、古墳時代と、どの時代においても男女問わず装身具で飾る習慣がうかがえる出土品が発見されていますが、当時は、勇者あるいは権威の象徴、 また呪術的な意味合い、同族の証など、社会的な意味合いの濃いものでした。

弥生時代には大陸より金属器や銅と共にその加工技術も伝来し、古墳時代の埋葬品には細やかな細工を施された装身具が多く発見されています。   飛鳥時代に入ると、仏教の伝来と共に、装身具は仏様を飾る特別なもの    としての意味がもたらされ、人々は我が身を飾ることを避ける一時期を経ることとなりますが、そのような時代にあっても、野に咲く花を身に着けるなど、装身具の存在は、この日本においても時代を問わず、人々の営みに欠かせないものであったといえるでしょう。

貴金属を素材とする装身具は、弥生時代の出土品にも見られるように大変古い歴史がありますが、特に江戸時代から明治期にかけて、開国を契機に   急速に発展してきました。

その背景には、西洋から多くの舶来品が入って来たこと、また明治9年に発布された帯刀禁止令を契機に、装剣金工(刀剣の柄(つか)、鍔(つば)、鞘(さや)など、外の部分を保護・装飾を施す職人)たちがその職の減少に伴い、装身具を扱うようになったことがあげられます。彼らの造る装身具は、やがて海外へと輸出され、ウィーン万国博覧会、パリ万国博覧会を経て、   ジャポニズムブームの一翼を担うことになります。

その技は、金属加工技術の基本とされる「彫金(ちょうきん)・鍛金(たんきん)・鋳金(ちゅうきん)」を巧みに合わせて制作されるだけでなく、  装剣金工にみられるような日本独自の技が加わり、現代に受け継がれてきました。

⬛︎金属加工基本の技術

「彫金 ちょうきん」

形を作るのではなく、表面に「たがね」というノミで彫り、模様をつける技法。細かな模様を掘っていきます。細い線などをつける「彫り」、彫った溝に金属を埋め込んで模様を表す「象嵌(ぞうがん)」など、様々な技法があります。

「鍛金 たんきん」

金属を金づちなどでたたき、伸ばしたり縮めたりして、少しづつ形を作る技法。たたいて金属の密度を高め強くする「鍛造(たんぞう)」、たたきながら金属を縮め、器上の形に作っていく「鎚起(ついき)」などの技法があります。

「鋳金 ちゅうきん」

型を作って、そこに高温で溶かした金属を流し込んで固める技法。型は使う原料や作るもので異なり、砂と土を使用する「鋳型(いがた)」、蝋(ろう)で原型を作る「蝋型」、粘土で元の型を作って石膏で固める「込型(こめがた)」があります。

島功師による木目金のジュエリー

  Mokumegane

「木目金」は、色の異なる金属を幾重にも重ねて接合し、その表面を彫ってさらに鍛え伸ばし、美しい文様を作り出す日本独自の金属工芸技法です。その木目のような文様が銘木の一種鉄刀木(たがやさん、マレー・インド東部に自生するマメ科の高木。黒と赤の紋様があり、堅牢美麗で風雨に強く、建築器具に利用される。)になぞらえて、「タガヤサン地」とも呼ばれていました。

その始まりは、今から約400年前、江戸時代初期に出羽秋田住正阿弥伝兵衛(出羽の国秋田のしょうあみでんべえ)が考案した「グリ彫り」の鍔(つば)といわれています。

「グリ彫り」もやはり、色の異なる金属を幾重にも重ねて、唐草文や渦巻文を彫り下げ、幾重にも重なった色の違う金属の層を浮かび上がらせる技法です。グリとは、中国の「屈輪(グリ)彫り」が起源といわれ、こちらは様々な色の漆を重ねて彫る技術です。

正阿弥伝兵衛によって生み出された「木目金」、「グリ彫り」の技法は、江戸へと伝えられ、江戸中期には高橋正次、その弟子・高橋興次によってその技術は高められました。

これらの技法は主に、刀の鍔など、武士の刀装具に使われていたことから、明治時代に入り、帯刀禁止令の発布により扱う職人が減少し、その技術も途絶え、幻の技術とされていましたが、創始者である正阿弥伝衛門、高橋正次、興次を始めとした当時の職人たちが遺した素晴らしい作品をもとに、多くの工芸作家、研究者によって、作品の復元、研究が進み、当時の技法が現代にも受け継がれ、日本だけでなく海外においても研究されています。

豊島区伝統工芸士、島さんもそのお一人。長年の鍛錬によって磨かれた金属加工技術と、経験に裏打ちされた職人の感によって、幻の技術「木目金」を制作されています。

木目金は、元となる地金を幾層にも重ねて圧着し、約10時間、熱を加えて接合します。この接合は構成する金属の種類によって時間の調整が必要で、何時間もかけて圧着しても、時に金属同士が剥離し、使えなくなってしまうこともあるそうです。そのようにして接合された地金をさらに必要な厚さまで鍛え、彫りを施し、さらに鍛える工程を繰り返すと、複雑な文様が現れてきます。最後に、緑青(ろくしょう、銅に生じる錆)を混ぜた水で煮ることでそれぞれの地金に化学変化を起こさせ、重厚感と独特の光を持つ色の表出によって、「木目金」と称される鮮やかな文様が浮かび上がります。

このようにして、重厚且つ、繊細な色彩で輝く木目金の紋様は、驚くほどの高度な技術の重なりによって生み出されるのです。

  造 Beeswax Casting

島功師による鋳金技法によるジュエリー

蜜蝋と松脂を煮溶かしたものを適度な柔らかさにして引き、棒状にし、装身具の形に形成し ます。それを石膏で固め、熱を加えると蜜蝋が溶けて流れ出た後に空洞ができます。これを 鋳型としてそこに溶かした金属を流し込み、固まったところで石膏を外し、金属部分を取り出します。取り出された金属は、さらに装身具として磨きを掛け、宝石など新たな加工を加えて、  完成させます。

蜜蝋を使用することによって、しなやかに伸びた引きの筋文様と、リボンのように柔らかで繊細な動きを金属で型作ることが出来るのが特徴です。

このように説明すると簡単なようですが、蜜蝋を自在に扱うことは難しく、微妙な温度変化によって蜜蝋の柔らかさも変化するので、季節によって配合を変え、美しい引き筋を出すことは簡単な事ではありません。蜜蝋鋳造も日本の伝統技法でありながらも、その難しさ、工程の複雑さに、現代においては、その卓越した技術を継承される方がほとんどいないような状況です。

 

 

  Yose-Mono, no casted.

松本正博氏による寄せ物細工のジュエリー

「寄せもの」と呼ばれる細工は、極めて小さなパーツを一つ一つ制作し、そのパーツ同士をロウ付けと呼ばれる接合技法でつなぎ止め、装身具として形成する技術  です。

大きな地金を細い細い棒状に伸ばし、鍛え、その先端を細工し、小指の先ほどの小さなパーツを作るその技術は、帯留のように、決まった寸法の帯締めを入れることができ、且つ緩まないようにする加工、まさに1㎜以下の正確な微調整が要される金属加工技術にも応用されます。高度で精密な技術はもちろん、極めて根気のいる作業を擁するため、今では、技術を伝承し、制作する方は極わずかで、数えるばかりになってしまったといわれます。

同じような小さなパーツをいくつも繋げる「寄せもの」は、高い技術力を必要とし、時間もかかるという困難さから、最近では一般にキャストと呼ばれる鋳造された台座を用いて制作される貴金属装身具が幅を利かせていますが、「寄せもの」として一つ一つパーツを作ることには、鋳造品では得られない装身具としての重要な意味があるのです。

「寄せもの細工」を施すことで、金属そのものが主体となる鋳造に比べて、重さがかなり変わるのです。「寄せもの」では、宝石を支えるための薄く丈夫な受け皿になるようなパーツを一つ一つ手作りし、繋ぎとめる手法によって、たくさんの宝石を身に着けても大変軽量に仕上がります。装身具とは、長時間身に着けることが想定されるものが大変ですから、まさに最適な製法の1つと言えます。

頭に乗せるティアラ(冠)を想像してみてください。鋳造で作った場合、ともすると土台と宝石とで1㎏を軽く超えてしまうこともあるそうですが、「寄せもの」で作られた装身具はどれを手にとってもあまりの軽さに驚きます。またデザインの上でも、宝石を主体として制作されるので、支えとなる金属が宝石の輝きを邪魔することがありません。

その薄く仕立てられる特徴から、宝石の輝きを繊細に引き立て、且つ肌身に付けて負担にならない実用性も兼ね備えています。

“庁舎まるごとミュージアム第二期解説より抜粋”
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