■豊島区の江戸提灯士

Mitsuo Takizawa

瀧澤 光雄

 

Fukuo Hayakawa

早川 福男

 

提灯の歴史 History of paper lanterns

 提灯は、祭礼の時また居酒屋の軒先など、今でも私たちの目に触れる機会が多い伝統工芸ですが、その歴史背景を知ろうとすると、あまりにも文献が少ないことに驚かされます。それは恐らく提灯というものが、今日でも日常生活の中で活用され、明かりとして、また看板としても実に馴染みのいい日用品であったことが理由ではないかと思われます。

提灯は、江戸時代に入り、和ろうそくの生産が奨励されたことによって、以前よりは手軽にろうそくが手に入るようになったことから、日常の照明器具として広く普及したことは分かっています。

そもそも日本人にとっての明かりとはどのようなものだったのか、その変遷をみてみましょう。

古代、縄文時代には、土器の中に木片や油を入れて明かりを灯すようになりました。飛鳥時代に入ると、仏教の伝来とともに明かりをもたらす道具が中国から伝来します。

文献を紐解くと、最も古くは、平安時代1085(応徳2)年に書かれた『朝野群載(ちょうやぐんさい)』に「無挑燈柱」という名で登場します。「手に提げて歩く灯」という意味からくる「ちょう(提)」・「ちん(灯)」の呼び名は、どちらも唐音(宋音)、中国宋の時代の発音によるところからも、日本の同時代にあたる平安時代に渡来したであろうことは想定されます。しかし残念ながら、この時代に実際にあったのかどうかを確認する資料はありません。

伝来した当初は、中国明時代(1607年)の類書『三才図会(さんさいずえ)』に描かれている「提燈」のように竹などを籠状に編んでつくられた折りたたみができない「かご提灯」であったといわれていますが、これも定かではありません。

絵画では、1536(天文5)年成立の「日蓮聖人註画賛(にちれんしょうにんちゅうがさん)」に描かれているものが最も古く、この絵画には、底板から立ち上がる2本の柱と把手で支えている形状ではあるものの、籠状に編まれたものではなく、折りたたみができる提灯が描かれています。私たちがよく目にする上下に輪を付けた提灯の形はまだみられませんが、この把手付2本柱の構造は、かご提灯の流れを汲むもので、室町時代から安土桃山時代まで続いたといわれています。この時代はにまだ、提灯は仏事や祭礼などに使われる貴重なものであったと考えられます。

戦国時代には、「大坂冬の陣図屏風(1615年頃)」に描かれているように、戦場でも提灯が灯火器として使われていたことが分かります。戦場で大量に使われるという需要の為に、張輪(提灯の上下に付けられた輪)の無い簡易な構造が生まれたと考えられます。その一方で、上下を箱状のもので挟み、折りたためるようにした「箱提灯」が出現します。同時代に描かれた「洛中洛外図屏風(1615~24年)」には、張輪の無い提灯と箱提灯を手にする武士の姿が描かれています。

「箱提灯」の起源については、日本考古学の鼻祖ともいわれる江戸時代の考古学者 藤貞幹(とう ていかん)の著書『好古日録』の中に、豊臣秀吉の時代に初めて作られ、当時は上下の輪は藤葛(ふじかずら…藤のつる)を編んだものであったという記述がみられます。京都高台寺には、秀吉の遺品と伝えらえる豪華な蒔絵を施した上下の輪が現存しています。

当初、箱提灯は胴が長く作られていて、棒で吊り下げると揺れやすいため、上下の輪を繋ぐ棒を差し込んで自立するものが現れます。しかしながらこれも、胴長であるために倒れやすく、重心を低くするため次第に火袋は太く短くなり、移動の際には棒で吊り下げるのではなく、上下の輪に差し込んだ棒を把手として持てるよう改良され、揺れが少なく安定して使えるようになりました。

この箱提灯をさらに携帯用として発展させたものに「懐提灯」があります。俗に小田原提灯と呼ばれるもので、当時の旅人の必需品でした。これは携帯性を重視したもので、畳むと上下の丸い輪の中に火袋が収納され、懐にも入ってしまうくらい小型軽量に作られています。普通の提灯では、火袋を形成する竹ひごに丸いものを使用していますが、小田原提灯は、耐久性を持たせるために四角く太めの竹ひごが使用されています。長い旅に耐えられるように考えられているのです。

「ぶら提灯」とは、棒の先に吊る下げて提灯を使ったものですが、前述のように箱提灯の改良が重ねられたことで、ぶら提灯といえば、丸型の提灯をぶら下げることが主流になりました。やがて提灯には、常用に耐えうるよう上下に輪が取り付けられ、18世紀の末頃には、その輪に改良が加えられ、輪自体を二重構造にして、より強靭に改良されたりと、箱提灯ほどの機能性は無いものの、簡易で軽量、安価に仕上げることのできる提灯として、ぶら提灯は夜道の足元を照らすには好都合なものとして広く使われました。

「高張提灯」は、その名の通り、高所に張られるための提灯です。高所を照らすだけでなく、目印としての機能も果たし、祭礼行事や大名行列などで先頭を歩く提灯持ちがいい例でしょう。屋外で長時間使われることが多く、提灯には安定性と長時間灯すことが出来る長いろうそくが設置できるよう自然と丸長型の提灯が使われることが多くなりました。軒先に吊るすことも多い高張提灯ですが、お寺の門前などに、提灯に合わせた小屋根と台座をあつらえて設置されているものも、高張提灯の一つです。

提灯と言えば、時代劇でよく目にする御用提灯を思い描く方も多いのではないでしょうか。これは「弓張提灯」といって、火袋を張って、提灯の後部に持ち手となる弓を付けて火袋を固定し、移動に便利なように作られた提灯です。ぶら提灯と大きく違うのは、独立して床に置くことができることです。また持ち手にしっかりと火袋が固定されているため、激しい動きにも耐えられるところから、捕り物の際の御用提灯にも取り入れられたことがわかります。

この他にも、その使用の目的によって「馬上提灯」「桶型提灯」「傘提灯」「足元提灯」「水軍提灯」「枠付き提灯」等々、様々な提灯が生み出され、江戸時代の人々の暮らしに欠かせない道具として発展しました。

「明かりを灯す」という実用的で重要な役目を持った提灯ですが、提灯にはもう一つ、重要な用途があります。それは「看板」としての役目です。

「灯」は暗いところでも輝き、遠くまでも人にその存在を伝える力を持っています。そこに江戸時代の人々は、文字を書くことで、一目で多くの人に物事を伝えることができる看板やサインとしての機能性を提灯に持たせました。

店の軒先に吊るされた大きな提灯は、今もそこかしこで見かけます。この看板提灯は18世紀の中頃から出現します。各店の商品を書くことが主流であったようですが、さらに目立つよう赤地に墨書きのスタイルへと、徐々に装飾性も兼ね備え、バリエーションも豊かになっていきました。店じまいを今でも「カンバン」といいますが、これは閉店時に軒先に吊るされた提灯、つまりカンバンを外したことが始まりといわれています。

看板やサインとしての役割は、前述の御用提灯のように、重要な職務にも使われます。

江戸市中に設置された町火消や大名火消、定火消などは、各組の合印を入れ、それぞれの属する組を示しました。さらに提灯の華やかさは、店の軒先の装飾だけでなく、劇場や遊郭の空間を照らす演出として、それぞれに合わせたデザイン、文字入れなど、多種多様に発展していきます。

以上のように、江戸時代には様々な用途で使用された提灯ですが、その一方で祭礼での使用は変わらず、葬式やお盆にも欠かせない道具として、人々の暮らしの中で、使われ続け、今も私たちの暮らしを彩っているのです。

⬛︎江戸手描提灯とは

江戸提灯の最大の特徴は、火袋に描かれる意匠が全て「手描き」であるということです。

竹ひごを幾重にも重ね、表面がでこぼことした丸い形状の提灯に、様々な文字、家紋、デザインを自在に描く技こそ、江戸提灯の最大の魅力であり特徴です。

丸みを帯びた提灯ですが、人々が正面から見た時に、描かれた文字や家紋が歪んで見えることの無いよう、全体的なバランスを捉え、形状を微妙に変化させて描いていきます。火袋の主体となる和紙は、洋紙にはない強靭さを兼ね備えています。その秘密は、原料となる楮(こうぞ)の繊維が不規則に幾重にも重なり合う構造にありますが、その不規則な繊維の重なりに文字を美しく載せるためには、墨や色粉といった素材に対する知識、その濃度も計算しなければ、載せた色が滲んでしまい、事によっては、提灯を畳んだ時に破れたり、逆に色素が固まり畳めなくなってしまったりするのです。

またお客様の注文に応えるためには、様々な文字、家紋や紋章など、何でも書くことのできる膨大な知識の習得が欠かせません。

~庁舎丸ごとミュージアム第九期解説より抜粋~
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